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■南部鉄道
 青森県の尻内(現・八戸)から五戸まで走っていた鉄道です。昭和5年、蒸気2両、
客車2両、貨車2両、ガソリン車2両という構成でスタートしました。その後、キハ400
00、キハ41000と国鉄払い下げ車両で営業をしましたが、昭和43年の十勝沖地震
で壊滅的な被害を受け、廃止されました。(模型化には手ごろな規模!)
 東北には国鉄線から枝のように伸びる私鉄が多くありました。これは学校の郷土史
で習った事ですが、東北本線が計画された時、国は国道4号線に沿った形を考えた
そうです。でも、新橋ー横浜間の最初の鉄道がそうであったように、保守的な地元住
民の反対が大きく、大きな町をつなぐ形にはならなかったのです。その後、鉄道がな
ければ地域の発展がないという考えが主流になり、大きな町の有力者が鉄道をひき
ました。青森の東北本線沿線だけで3本もです。北から南部縦貫鉄道(野辺地ー七戸
十和田観光電鉄(三沢ー三本木)、そして南部鉄道です。現在、営業してるのは十鉄
(地元ではトウテツと呼びます)だけです。この三者が早期に合併していたら、青森県
の南部地方の地域発展は大きく違っていたでしょうし、南部縦貫鉄道も五戸まで繋が
っていたかもしれません。
          野辺地
  
青森
       七戸
    古間木(三沢)
三本木(十和田)

                 八戸
        
五戸    尻内
 夢のような話はともかく、レイアウトは小さな所帯の地方鉄道を考えました。廃線跡
は悲しくなるので好きではないのですが、一度、帰省の際に訪ねてみたいとも思って
います。
 当鉄道ではスカ色(横須賀線色)を採用しました。飯田線かなあ。何故、南部鉄道の
色にしなかったかは、南部人の気質をお話しなければなりません。(大袈裟かな)
 ご存知のように、青森は西の津軽と東の南部に分かれています。分かれているのは
地政学的な話だけではありません。言葉も、習慣も気質も違います。走っている私鉄を
見ても分かります。伊奈かっぺいというタレントが青森で活躍しています。太宰は「津軽
」を書きました。津軽じょんがらは全国的に有名です。ねぶた、青い山脈、はあテレビも
ねえ。吉幾三。全部、津軽なんですよ。津軽の人は、田舎のどこが悪いという開き直り
があって、でも、津軽の文化を誇りにしています。南部は岩手から分割された盲腸みた
いで、コンプレックスがあります。中央に近付きたい思いが強いのです。東京に出たら
銀座に山買うどころか、なるべく同化しようとします。車両の色にも表れているのです。
そうした南部人気質を表現したのが、当鉄道で採用した色です。(だめか・・・)
 ところで鉄道名ですが、ニンニクで有名な田子(たっこ)という地名を拝借して、自分の
店の名前を使って軽田子鉄道と命名。地方鉄道らしくていいですね。

VS

鉄道の設定を考える

2003・軽田子鉄道

■軽田子鉄道
 軽田子鉄道は南部鉄道の志戸岸から山々に囲まれた八幡(平家の隠れ里と言わ
れる村落)まで延長された支線である。地元出身の野中駿衛門によって建設された。
軽田子鉄道は当初軍馬の輸送で賑わったが、戦後は寂れていく。それでも道の整
備もすすまない山の里にとって軽田子鉄道は重要な交通機関だった。
 勾配が急で山に入る為に、国鉄の払い下げ蒸気が改造を受け入線するほか、野
中の青森師範学校(弘前)の同級生・平八郎氏の仲介で津軽鉄道の車両も借り入れ
運転をする。のちに鉄道ファンの脚光をあびることとなる。
 南部鉄道の志戸岸駅から隧道2本でループ状に高度をかせぎ、終点の野中駅に
いたる5,8kmの旅は短いながら旅人を飽きさせない。 

左の本「消えた鉄路のレクイエム」の写真が軽田子鉄道の
エッセンスです。こんな風景達を摸景したいなあ・・・