木曾森林鉄道について

 木曾は中部山岳地帯の中央に位置している。木曾という名は「続日本紀」(797年)に
「岐蘇」「危村」「吉蘇」などと記載されているのが文献に残る最古のもので、現在用いら
れる「木曾」という漢字は「平家物語」や「源平盛衰記」を通じて一般的になった。
 室町時代、戦国時代、安土桃山時代を通じて木曾は源義仲(木曾義仲)一族の支配下
にあった。その後、豊臣秀吉は北条氏を討ち、木曾の支配者であった木曾義昌を上総国
(千葉県)に移封し、木曾を直轄地として治めた。新たな代官も木曾氏の森林管理方式や
運材技術、労働者の組織を踏襲した。
 その後、木曾の山林は名古屋城、江戸城、伊勢神宮および大小の神社仏閣の建立の為、
太古からの森林が伐採された。
 江戸時代、木曾は尾張藩の所領となった。尾張藩は材木奉行をおき、材木を藩の財源と
しながらも、戦国の世以降、荒れた山林の保護に政策を実施した。盗伐に対し「ひのき一
本、首ひとつ」という厳しい対処をした。こうした山林保護が明治時代まで続いた結果、木
曾谷は全国でも随一のひのきの美林として残ったのである。
 明治にはいり木曾は長野県に組み込まれ、多くは内務省山林局(明治12年)の管轄に
はいった。明治14年に農商務省に山林局は移され、明治22年に木曾谷・御料林編入に
よって木曾は山林局から御料局管理となった。御料局は帝室林野管理局木曾支局(明治
41年)、帝室林野管理局木曾支庁(大正3年)、木曾地方帝室林野局(昭和18年)と改称
したが、戦後、昭和22年にGHQの命によって、それまで管轄が分かれていた国有林、御
料林、北海道国有林がひとつの管轄下に置かれるようになった。

 木曾森林鉄道は明治34年に阿寺に敷設されたのを機に、大正2年の小川森林鉄道、大
正6年に王滝森林鉄道と建設が続いていき、昭和13年頃までに伊奈川森林鉄道を除き、
ほぼ木曾の森林鉄道・軌道の骨格が形成された。
 木曾森林鉄道は、その規模により森林鉄道、森林軌道、作業軌道の3種類に分かれ、そ
れぞれ軌間は762mmながら、通る車輌を限定し、規格を決めている。以下は昭和28年
までの森林鉄道の規格、( )内は以降変更になった呼称と規格。

 ■森林鉄道(一級線)
    幅員 2,4〜2,73m 軌条 10〜12kg(10〜22kg)
    最小半径 20m(30m以上) 最急勾配 50%o(40%o)
    入線機関車 6〜12t
 ■森林軌道(二級線)
    幅員 2〜2,4m 軌条 8kg(9kg)
    最小半径 15m(10m以上) 最急勾配 60%o(50%o)
    入線機関車 3〜5t
 ■作業軌道
    幅員 1,5m 軌条6〜8kg 最小半径 4m 最急勾配 80%o
    人力ないし3〜5t
 作業軌道は伐採場所に応じて森林軌道と接続して、応急的に作られる軌道で、一般に
路盤は作らず、伐倒木の中でも品質の低い丸太を利用して桟状に組み、その上に軌条を
敷設した。撤収後は丸太を製品として処分できるよう釘など使わず、ホゾ、カスガイを用い
て節約した簡易設計の軌道であった。
 一級線、二級線という言い方は、それまで不統一であった全国の規格を昭和28年に林
野庁が改めたもので、森林鉄道を一級線とし、森林軌道を二級線とした。
 当初、森林鉄道の運搬方法は、山トロリーと呼ばれる2軸の台車を人力で押し上げ、木
材積載後、その重力によって森林軌道の連絡点まで乗り下げた。そして2台一組の木材
運搬車(運材台車)に木材を積み替え、内燃機関車が貯木場まで運搬していた。
 のちに作業軌道まで内燃機関車が入線できるようになると、運材貨車も乗り入れ、山ト
ロリーからの積み替えが省かれ合理化された。しかし最初の頃は、作業軌道では、機関
車は台車を引き上げるだけであった。積車は2台一組の運材台車を4〜5組連結してブレ
ーキ手がそれぞれ乗り込み、重力によって乗り下げを行っていた。機関車は単機で回送
された。戦後、運材貨車に貫通ブレーキが装備されると、機関車が先頭に付き山を上り降
りることが可能となった。こうした機動力の向上と伐採地が山の奥深くなることで、作業軌
道も長くなり、インクラインや2段、3段のループ線を連ねた大規模なものとなっていた。本
線でも有名な煙突を持つ米国製ボルドウィン社のSLは、大型の内燃機関車C4(局形式
DBT10)などの増備によって廃車に追い込まれた。なお、木曾森林鉄道は地元民の足と
して、また、村への物資の輸送手段としても利用された事が特徴的である。王滝村購入の
スクールカー・やまばと号などの入線、運行も許された。
 
     
▲山トロリーの乗り下げ                 ▲王滝村滝越に保存される「ヤマバト号」
 しかしながら、木曾森林鉄道も、その大規模さゆえに次第に経営面での限界を呈しはじ
めていた。索道や架線による合理化運材への転換、伐採方法も森林保護から皆伐方式
が間伐方式に改められ、大量運材の時代は終わりを告げようとしていた。基幹の森林鉄
道、軌道も少しずつ縮少されていき、昭和51年の王滝本線廃止を最後に、日本最大と言
われた森林鉄道は、木曾谷から消え去ったのである。
 廃止され30年も経とうというのに多くのファンを持つ木曾森林鉄道の魅力は、その規模
や車輌の種類の多さのみならず、地元の人たちの生活に密着していた特別な森林鉄道で
あった事によるのではと考えられる。廃止直前には多くのマスコミにも取り上げられ多くの
人に惜しまれつつの最後であった。このような産業用軌道は他に類をみない。そしていまだ
私達を魅了してやまない。(2004年6月KMC)
   
●参考資料 (株)ネコ・パブリッシング社刊 西裕之氏著書「木曾谷の森林鉄道」
               郷土出版社 「思い出の木曽森林鉄道」



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